「人種差別」には、ふたつの側面があります。一つは①外見や慣習の異なる人達に対して、どう扱っていいのかわからない、共通の関心事がなくつきあいづらい、彼らの生活慣習は自分たちにとって迷惑である、といった感情的な面。もう一つは②安価な労働力を安定的に確保するため、敢えて特定のグループの人たちを低い地位にしばりつけておこう、という社会構造的な面です。 ①の「お前らキライだ」というだけなら、そもそも国に入ってこないようにしたり、国に帰れと追い出したりするのですが、②の安価な労働力が欲しい人たちがそれなりにいれば、移民を受け入れることになります。安価に抑えるためには、そのセクターが常に供給過剰でなければならないので、最下層に移民をたくさん受け入れることになります。アメリカで移民の流入が爆発的に増えるのは19世紀後半から20世紀初頭にかけての「泥棒男爵の時代」、つまり未洗練・荒唐無稽の資本家が力にまかせて跋扈した時代であり、泥棒男爵達が安価な労働力を必要としたからでしたね。そして泥棒男爵たちは、一種類のグループだけだとアイリッシュのような政治的な勢力になってしまうので、あえて細かく分ける、という戦略をある程度意識的にとったのかもしれません。「①排斥」があるのに、なぜ完全にシャットダウンしないかというと、「②受け入れ+差別」のメリットがあるからです。
実はありがたいはずの安価な労働力に対し、時々大きな排斥運動が起こるのは、下層にいる既存住民が、競合勢力がはいってきて自分たちの給与水準が下がることを嫌うことが大きな要因で、そこに①の感情要因が加わります。つまり、下層民ほど「排斥」側に寄ります。一方で、彼らをつかって甘い汁を吸う人たちは、新しいグループを次々と入れ、勝手に自分たちで争うように、つまり下層民を分断するようにし、自分の手を汚さずにニンマリしています。こうした泥棒男爵は「受け入れ+差別」に寄ります。このとき、カリフォルニアでニンマリしていた代表例が、鉄道王であり政治家としても権勢を振るった、例のレランド・スタンフォードです。この分断構造に気づいてしまった人たちが「万国の労働者よ団結せよ」という方法を編み出したのも、ちょうどこの時代です。
そして、日系人コミュニティでは①の排斥「感情」をできるだけ抑えようと、アメリカ社会に溶け込むための大変な努力を続けてきました。それでも差別が続いたのは、白人といかにも見かけが違うという①の面が拭えなかったことに加え、②の構造要因が引き続きあり、それに太平洋戦争の要因が加わった、という3つの要因があると思います。精神論だけでは、移民の問題は解決しないのです。
(30)で述べたように、日系より前に、すでに中国系移民がたくさん北カリフォルニアにはいっており、「中国人排斥法」ができていました。この時点では中国人に対して②より①のほうが強くなってしまったのですが、泥棒男爵さんたちがまだまだ移民を必要としていたので、日本人が入ってくることになりました。
サンノゼでも中国人排斥が激しく、中国系の人たちには家主がアパートを貸さなかったのですが、おそらくは宗教的な信条から、中国人を受け入れてくれたジョン・ヘインレンという地主があり、彼の所有地がサンノゼのチャイナタウンとなりました。なお、ヘインレンさんはメソジスト教徒であり、「メソジストの人たちは一般に日系移民に親切だったため、多くの日系人がメソジストに改宗した」というお話を、現在でも日本町の中心であるウェスレー合同メソジスト教会のキース・イノウエ牧師が語ってくださいました。
幸い、ここでは「分断」が起こらず、チャイナタウンの人たちは新しくはいってきた日系移民を受け入れてくれました。習慣が似ていて、日本に近い食べ物や生活用品が入手できるということで、日本人がチャイナタウンの近辺に住むようになり、初期の頃に日系農家が必要なものを購入するのにクレジットを供与してくれたのも、日系農家の産物を買ってくれたのも、チャイナタウンの商店でした。
日本町で講演をしてくださったジミさんが生まれたのは1922年頃で、ジミさんは日本町の産婆さんのところで生まれたそうです。この頃、日系人は病院を使うことができなかったからです。日系人が医師になることもできませんでした。ジミさんは本当は大工になりたかったのですが、「なれない」と言われました。そのための教育を受けることはできないことはなかったけれど、卒業後に大工の組合にはいることができず、そうすると仕事が来ないので、実質的には「なれない」からやめておけ、と学校の先生に言われたのです。
米国南部の黒人差別のような、制度的なあからさまな差別ではなかったけれど、こうした形で日系人は、専門職としての技能を身につけてのし上がる、という道も封じられていました。以前述べた、移民ののし上がり戦略の典型として、敢えて特色あるコミュニティを維持して数の力で政治に参加していく「アイリッシュ戦略」を挙げましたが、人数が少ない場合、教育により技能を身につけ、専門職として個人の地位を向上させるという、ユダヤ系型の「ジューイッシュ戦略」があります。数が少ない日系人は「アイリッシュ戦略」が採れませんでしたが、技能職から締め出されていたので、「ジューイッシュ戦略」の道も封じられていました。
こうしてサンノゼの日系移民は、「農業」に縛り付けられていました。しかし、1913年にCalifornia Alien Land Lawができ、1920年にはそれが強化されて、日系人は土地を所有することも、長期リースすることもできなくなりました。1920年の法改正は、日系人排斥の激化に伴い、日系農家をターゲットにしていました。それでも農業しかできなかったので、日系農家は、白人農家に「名義貸し」をしてもらっていました。土地改良や農器具への投資も日系人が行い、本当に単に名前を貸すだけなのに、売上のかなりの部分を白人農家が取っており、貸した白人農家はおいしい商売でした。
日系ミュージアムで当時の農機具展示を見ながら、差別で甘い汁を吸っている②的な人というのが必ずどこかにいるものだなー、と改めて思った次第です。
当時日系人農家が産物の出荷に使っていた箱。日本人の名前は全く記載されていない。(サンノゼ日系アメリカ人ミュージアム展示)
出典: San Jose Japantown - A Journey、The Japanese American Museum of San Jose, Wikipedia